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鉄割と子供鉅人

  • Posted by: 松野泉
  • 2010-11-19 Fri 22:22:05
  • -
鉄割のトカゲ?イグアナ?の芝居が好きだ。バッド・ルーテナントのパロディーなのか?観客を呼んで死体にみたてる導入も好きだし、全く意味がないのが良い。いつからかは分からないのだけど、観客にシュールな物に対する抗体がついてしまったような気がする。そんなものは昔からずっとあって、それでも無邪気にバカだバカだと楽しむが勝ちなのかもしれないが、場の空気に直接的にそういうニュアンスが出てくる時、ちょっと醒めてしまうのが寂しい。鉄割アルバトロスケットの芝居は見世物小屋的な興味と祭りの感覚、意味を超えた笑いや、感動を求めてしまうのだが、既に劇団と観客との間にある種の共犯関係が出来上がってしまっていて、それが場を緩くしてしまっているのが寂しいし、振り切れているようで、微妙にリミッターがかかり、リバーブまでかかってしまっているような表現が、何とも切ない。しかしこれは劇団の表現の問題であるのか、自己主張の強い、シュールを分かると小さな枠の中に閉じ込めようとしている観客(自分)の問題なのか、事態は非常に複雑だ。鉄割の芝居と子供鉅人の芝居は、共に客席が舞台と同化していて、鉄割は祭、子供鉅人はクラブの空間を演出して、観客に酒をすすめ、まず場を作る事を怠らない。鉄割はショートコントの積み重ねのような形で舞台を進行していく、子供鉅人は一応は一つの物語を語る。しかし、その全体の物語の中から夫々のシーンはどんどん飛躍していき、そこで起こっている事の面白さの中に全体の物語は回収されていくので、観ている最中は独立したショートコントのような感覚がある。子供鉅人の芝居の中にはシュールという言葉の中で安心できない役者達がいるので、必然的に観客シュールである事以上に劇的な何かを芝居に求める。しかし、鉄割の芝居においては、出演者がシュールである事を求められその事を自然な状態で引き受けてしまっているので、観客との需要と供給がマッチしてしまっているように思う。これは表現としてはとても寂しい事だ。これは非常に深刻な問題で、いつも自分が何か書こうとしたり、歌おうとしたり、撮ろうとしたりする時に直面する問題でもある。単純に観客とは誰の事なのか、もしくは、誰を観客と想定するのか、そしてそれを意識するのか、しないのか、黒沢清が新刊の帯にカメラはギリギリの境界線に置け、物語は世界全体に関わるようなものであれと書いているが、その世界にどうしても曖昧な了解としての、観客の像が投影されてしまう。内側と外側、中心と周辺、、。芝居が500円で観れたら良いのにな。
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