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out of flame

  • Posted by: 松野泉
  • 2006-07-09 Sun 18:47:50
  • -
7月10日 自分が所属する制作団体のメンバーの一人が東京に行く/彼はメンバーにも東京行きを勧めたいらしい/久しぶりにメンバー全員で集まる/東京、、、、

20060709125827.gif


大西健二という作家がいる。
三本の映画を観た。
「絶頂」「out of flame」「焼星」
暴力と性が画面の内と外でせめぎあっている。言葉も風景も、暴力と性を放出する為の装置として安易な了解や共感を許さない。そのフレームの内に渦巻く得体の知れない空気が映画の外にあるいくつもの視点を支配している。彼の映画の中ではフレームの内と外、もしくはスクリーンの内と外、その境界は曖昧でなく、強固な意思のもとに並列化され、共存する。
 「絶頂」は撮影所の片隅に捨てられた未現像の呪われたフィルムであるかのような不気味さを伴って始まる。薄気味悪い女の顔がある。その女は笑っているようにも泣いているようにも見える。画面の外でせわしなく動き回る気配がする。聞き取れない言葉、ぶつぶつと何か苛立っているような声。何人かの人間がフレームの外から女を観ている気配がする。それはスクリーンを観ている僕かもしれない。そして唐突に女は男の暴力によってフレームの外に追いやられる。何の説明もないままに、映画は進行していく。
 セックスする男女。延々と長回しされるシネスコサイズの画面の中、擬似的なセックスが延々と続く。それは明らかに作られた、画面を性的視点で宙づりにする為だけに作られたあくまでも擬似的なセックスなのだが、それが何の為になされたものなのか、二人の関係性、そんな事は一切説明されず、ただただセックスが続く。全く性的欲望を喚起させる事のないだらだらとまるで何かの苦行のように続くセックスから、観客は目を離す事ができない。何故なら、そこには暴力の予感があるから。オープニングのあの突然の暴力の介入を観ている観客は、いつ訪れるかもしれない暴力の瞬間を期待と、恐怖で鼓動を高鳴らせながら待つ事を強要される。それはシネスコの画面の中に美しく構成された風景の中にさへ充満している、暴力の予感。
 「ターチトリップ」という映画がある。個人的な視点で切り取られた風景が延々と続く一見すると何の物語性もない、深夜にテレビで流れる癒しの映像のような作品。しかし、この映画もまた何かの予感のようなものを孕んでいる。小学校の体育館をのぞき観る視点。体育座りする体操服姿の小学生。一人自慰行為にふける男。性的な第三者の視点が観客に一瞬提示される。それはほんの些細な瞬間。しかし観客がそれを感じ取った時から、何気ない風景はその存在意義を変える。
 「絶頂」はそんな第三者的視点がスクリーンの中に強引に介入し、それがキャップを被り、ベストを着た小太りの男の姿で顕在化する。暴力の予感は現実の瞬間としてスクリーンに映し出される。観客はスクリーンの中のキャップの男となって男を撲殺し、女を監禁する。スクリーンの内と外は強引に接続され、同一化する。
 「焼星」はブラッケージの「夜への前ぶれ」のように美しいフィルム。
しかしこれは死を諦観するような静かなフィルムではない。あくまでも暴力の、突然の暴力の発動を記録した、切実で、激しい、生々しく突き刺さる映画だ。
  
  野球   out of flame   計算された構図  形式化された暴力/セックス 
      


 

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